
イサム・ノグチと新萬来舎
イサム・ノグチがデザインした、<新萬来舎>とその庭園におかれた<無>は、彼が国際的彫刻家に育つ転換期に制作されたものである。しかしそれと同時に、父と日本の人々への和解の行為でもあった。
イサムは1904年、カリフォルニア州ロス・アンジェルスに生まれた。かつて慶應大学教授であった野口米次郎を父に、アメリカ人レオニー・ギルモアを母に持つ日系アメリカ人である。しかし二人が正式に結婚していたかは謎である。イサムが生まれる直前、米次郎はひとり日本に帰国した。1906年、母レオニーとイサムは父親の後を追う形で日本にやってくるも、彼はすでに別の女性と結婚していた。以後八年間、イサムとレオニーは日本を転々として暮らす。その間、イサムが父親に会ったことは一度もなかった。
母親譲りの彫りの深い顔立ちは、
イサムに自分が日本において異端児であることを自覚させた。この認識は、1918年、高等学校入学のため渡米したあともイサムに付いて廻った。彼は純粋なアメリカ人にも、日本人にもなることができなかった。高校卒業後、医学を学びながら彫刻を学んでいたイサムが、紆余曲折を経て日本行きを実現させるのは、1930年のことである。イサムは、父が自らの詩を通じて西洋に東洋を理解せしめたように、彫刻を通じて同じことをしようと模索していた。しかし、出発直前に届いた父からの手紙には、野口の姓を名のって日本には来ては行けないと書かれていた。翌31年、イサムは父と再会を果たすも、そこには埋めようのない溝が出来上がっていた。
1950年、奨学金を得てイサムは再び日本行きを決意するが、第二次世界大戦と日本での辛い幼児体験が彼を不安にさせた。しかし戦争は、イサムと日本の人々との関係を驚くほど良好にしていた。イサムは既に亡くなっていた父の遺族と生活を共にし、父や日本の人々に抱いていた隔たりが徐々に消えていった。慶應大学の校舎の復興にあたっていた東京工業大学の谷口吉郎から、慶應義塾のためになにか作るよう示唆されるのはちょうどこの頃である。イサムは<新萬来舎>に、以前から興味を持っていた京都の庭園の要素を取り入れ、「魂を奮いたたせ喜びをもたらすような素晴らしい模範的な場所」を目指した。<無>と名付けられた円環のような彫刻は、禅用語で何もないことを意味し、穴を通して夕日を囲むことができるように設計された。彼は、そのころできた新しい友人たちに次のように語っている。
「現代的であるということは、われわれを模倣することを意味しない。それは自分自身であるということ、自分自身の根っこに目を向けるということである。」
「宿命の越境者」とも呼ばれる彼の作品・思想に触れることは、現在の我々にとっても決して無駄ではないだろう。
参考文献
『評伝イサム・ノグチ』 ドーレ・アシュトン著 笹谷 純雄 訳 1997年 白水社
『イサム・ノグチ(上)(下)』 ドウス昌代 著 2000年 講談社
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